このコーナーでは、きものに関わるエピソードを掲載して参ります。
主として、エッセイ集「きものをめぐる100ものがたり」(PR現代発行)より
作品のいくつかをご紹介して参ります。
不定期ではございますが、今後も少しずつ更新して参ります。お楽しみに。
皆様からも、お読みいただいた感想・投稿など頂ければ嬉しく存じます。

 
 
ものをめぐるものがたり その25                                           2006年4月1日 UP

きもののインパクト

                        東京都大田区  S.A.さん 38歳

 一月のある土曜日。中学校。私は、体育館に一歩足を踏み入れた。
 「うおぅ……」百四十人のざわめきが響く。
 「第三学年百人一首大会」大さな看板。私は、きものを着て行ったのだ。
 いつもはスーツにネクタイのS先生が、今日はきものを着ているので、生徒たちはびっくりしたのだ。
 「先生、すごい!」学級委員の女の子が声をあげる。
一年、二年と百人一首大会をやってきたが、何かもう一つ盛り上げられないかと考えて、きものを着ることにしたのだ。
 それにしても、私はきものを持っていないので、おんなものの色の派手な安いきものを買ってきて、着てみたのだ。
 「いにしえの 奈良の都の 八重桜 … …」
 国語教師の私は、札を読み始める。
 「はい!」
 「はい!」
 次々に札が取られていく。
 卒業を間近に控えている百四十人の生徒が、とても盛り上がった。
 これは、ひとえに、きもののちからか。きもののおかげで、素敵なひとときをたくさんの人が過ごすことができた。
 きもののインパクトはすごい。
一年経った今年の正月、私はおとこもののきものをきちんと買った。
 「う−ん、いいなあ」と、自分で感動している。

 
 
ものをめぐるものがたり その24                                           2005年5月22日 UP

日本の文化、着物

                               岡山県岡山市 I.Y.さん 44歳

 幼い頃、小学校の参観日、着物姿の母親が何人かいた。とても優雅で上品に見えたと、幼いながら記憶している。私の母は働きづめだったから、母の着物姿は記憶にない。
 日常生活の身近に全くなかったから余計に憧れの気持ちが大きくふくらんだのかもしれない。社会人となり、茶道、華道など習い始めると、着物との接点が増し、憧れが現実になり、袖を通す機会が増えた。益々、着物に魅せられ虜になった。和裁も着付けも習った。
 着物を着ると改まって、日本人だという自覚が芽生える。不思議と背筋がピンとなり、気持ちが引き締まる。「日本人」を意識すると、日本文化、歴史にもふれたくなる。着物で古都をよく旅した。雨が降れば蛇の目傘で、真夏に涼しい顔をして着るのも好きだった。
 結婚してからも、冬は着物で過ごした。子供達にもよく着せた。お正月は勿論、雛祭り、秋祭り、そして夏の浴衣、家で花火をする時でさえ、「お母さん、ゆかた、ゆかた!」と催促され着せた。下の息子までおじいちゃんの若い頃のおさがりを姉達に負けず着こなす。 小学生になって、冬休み。縄とびの宿題があったが、正月過ぎても着物を脱ごうとしない娘に、「洋服にしたら」と言うと、「お母さんだけずるい」と、それ以来、三が日のみに。
 そして更に数年経ち、三人の子も次々と受験生に。元旦から塾通いとなると家族も正月気分どころではない。遂に着物が着れなくなった。五年連続の受験。その中、来年、長女が成人式を迎える。浪人した娘は連日のように届く着物のDMを羨望の限差しで眺めている。いい春を迎えて、来年の艶やかな振袖姿を私も心から待ちわびている。
 我が家に久し振りに和の文化、着物が蘇る。その日をきっかけに、おさえていた着物への想いが再びフツフツと沸き出してくるであろう自分の姿が浮かんでくる。
 
 
ものをめぐるものがたり その23                                           2005年1月22日 UP

きものってきれいだね

                               栃木都小山市 T.N.さん 8歳

 きものなんて、女が着るものだ。長いスカートみたいだから、男が着たらかっこ悪い。だからぼくは着ないんだ。ゆかたは着たことがあるけれど、走れないし、苦しかった。
 「ぬぎたいよ」と言ったのに、「もう少し」と言われてしまった。ゆかたがこんなに大変なら、きものはもっと大変だと思う。お母さんやお姉ちゃんは、「きものはきれいだね」と、着てみたいようだ。ぼくには、よく分からない。
 「パパは、きものすき?」
たぶん、すきじゃないと思う。だって、パパは男だから、ズボンがいいに決まっている。
 「すきだよ」
 「えっ!?」
お父さんが、きものを着ている所を見たことはない。それなのにすきなんて、ちょっとへんな気がした。
 お母さんが、何かたくさんもってきた。アルバムだ。アルバムには、お母さんがきものを着て写っていた。
 「なんだ、けっこうきれいだ」お姉ちゃんもすまして写っていた。
 「きれいなものだね。お姉ちゃんまで、かわいく見えるよ」
きものも、けっこういいものだと思った。
 「これだれ?」
赤ちゃんが、青いくまの絵がついたきものを着ている。
 「俊よ」
 「かわいいね」
きものっていいものだ。男が着てもかっこいい。
 
 
ものをめぐるものがたり その22                                           2004年10月25日 UP

初めてのきもの

                               東京都立川市 K.Y.さん 31歳

 二十二歳の夏、ある着物店の前を通りかかり、一瞬、足が止まった。薄いピンク色に、金色の糸で刺し子状になっている地味な訪問着だった。黄色の暗い帯によく合ってそのマネキン人形の顔が自分の顔に重なる。それまで着物なんて七五三と成人式に親に押しつけられて着ただけで、興味がなかった自分に不思議と目に止まった着物。当時のOLの五ケ月分の給料に相当する値段は、私には清水の舞台から二回くらい飛び降りる覚悟のものだ。 会社の帰り、何度もその店の前を通り、店員に声を掛けられないように、遠目にながめるのが日課となった。その度にマネキンの顔が自分の顔とだぶり、その顔が回を重ねるごとニコニコ顔になっていく。
 数回、くり返した後、母に「いい着物を見つけたんだけど」と言うと、母は、娘の着物への興味に驚いたと同時に、一緒に見に行こうと言いだす。思えば、親娘でこのところ共通の話題など持たなかった。それが着物は私にまかせなさい・・と言わんばかりに、茶碗を洗う母の背中は嬉しそうだった。
 数日後、二人で例の店に行くと、母もたいそう気に入り、まるで敏腕セールスマンのように、「似合う似合う」と薦め、結局、道行コートと一緒に合計云十万の買い物を自分のボーナス一括払いで支払った。「なんだ一緒に来るんじゃなかった」と思いつつ、やっとマネキンの顔が本当の自分の顔になった嬉しさをかみしめた。
 その着物は今はまだ着ることもなく、実家のたんすに冬眠中である。
 私も母となり、娘の三歳の七五三には、初めての着物でニコニコ顔になるのだろう。
 そしてこの娘も、着物を着るようになるのだろうか・・。まだオッパイを欲しがるだけにまだまだほど遠い。
 
 
ものをめぐるものがたり その21                                             2004年1月1日 UP

何もかも変わる着物
                          石川県金沢市 K.T.さん 27歳

 着物といえば、「成人式」だ。私は七年前、成人式を迎えた。成人式を迎える前の年、母から「着物に慣れておいた方がいい」といわれて、足さばき、階段の昇り降り、トイレの仕方、食事の時の裾など、教えてもらった。確かに動きにくいが、慣れてくると全然平気だった。たぶん、私自身の性格がおっとりしているせいか、妙に私にあっている気がした。
 よくテレビなどで、割烹料理屋が出てくると、着物を着た女性が、しゃなりしゃなりと料理を運んで部屋に入ってくるが、気分はまさにあれなのである。自分の部屋にいて、ジーンズ姿でいる時と、着物着ている時とは大違いだ。趣味の仕事も、音楽聞いている時も、何か一味違うのである。着るものが変わるとこんなに違うのかと感心したくらいだった。
 そして、成人式。着付けを美容院でしてもらって、式もとどこおりなくすませた私は、「お母さんのいうとおりだった」とつくづく思った。何しろ美容院から、式を終えるまで三人ぐらい気分が悪くなった人を見かけて、その上、式を終えてから、そのまま車で三十分ほどかかる親戚の家へ行き、自宅へ帰る夜九時頃までの約十三時間、ずっと着物を着ていた。まったく着物でも平気だったからだ。
 めったに着る機会のない着物だが、着てみると「やっぱり日本の女の子だな」と思う。どんな女の子でも、成人式は着物を着るべきだと思うし、一日ぐらい「日本の女性」ということを意識しても別に損はないはずだからだ。

 
 
ものをめぐるものがたり その20                                                         2003年8月16日 UP

粋な着物
                          新潟県新潟市 S.M.さん 38歳

 夏の川祭りの出車には、芸者衆の祭る車があって、その車が通る度、母は「粋だねぇ」とため息をついていた。真夏の祭りということもあって、芸者さんでも着ているものはなんということもない浴衣なのだけれど、首の辺りを大きめに投げた、ちょっと崩れたような、それでいてちゃんとした着こなしが「粋だ」というのである。それでいて「素人はああいう着方をしてはいけない」という母であった。
 着物は、形はみな同じだけれど、着方によって「素人」と「老人」が区別されるほどに違いが出るものなのかと、違いのわからない私は不思議に思ったものだ。
 色柄にも区別があるのか、母に言わせると「粋な柄」というものがあって、例えば何縞というのだろうか、細い縦縞のもの。確かに時代劇の中では水商売というか姐御風の女性が着ていたりするのだが、ぞんな柄が着てみたいというと、母は「粋だねぇ」と言いながら、「普通の入には決して似合わない柄だ」と太鼓判(?)を押すのだった。母には母なりの着物へのイメージや憧れがあり、娘を良家の子女風に仕立ててみたいという気持ちがあったのだろう。生まれて初めて買ってもらった着物には、御所車の縫取がしてあった。
 似合うか似合わないかはわからないけれど、年を取ったならば、粋な縦縞の着物を着てみたいなあ、と思う。しわくちゃのおばあさんになっても、どこかに徒らな華やかさの残っている、そんな女性のイメージと、細い縦縞の着物とが、私の中で重なっている。
 
 
ものをめぐるものがたり その19                                                         2003年2月1日 UP
 
 
ものをめぐるものがたり その18                         2002年12月1日 UP

振袖
                          東京都江戸川区 C.T.さん 36歳


 成人式から十数年がたちました。当時の私は、振袖など買うつもりは毛頭ありませんでした。お金もなく、レンタルですますつもりでいました。ところが、母の希望で見に行くだけでも、と言う事できもの専門店へ行く事になりました。あれこれ見ているうちに私も欲しくなってきてしまいました。何とか支払いが出来そうなものを選び購入する事になりました。私にとっては初めての大きな買い物でした。しかし、その時の母は、私以上に嬉しそうで満足そうでした。
 母は、家に帰っていろいろと昔の事を話してくれました。母自身、成人式に振袖を着る事はなかったと言います。それは、すでに私を生んでいましたし、嫁ぎ先で母が成人式に出席することを許さなかったと言います。母は、自分が着る事の出来なかった振袖を何とか娘の私に着せたかったのだと思います。しかし、私に買い与える余裕もなく、かといってレンタルでは物足りないと、そんな気持ちだったのだと思います。
 それをきっかけに私の「きもの」に対する興味は深まりました。当時は、自分には必要のないものと思っていましたが、自分で支払い手にしてみると、とても愛着が湧き一層大切にするような気がします。あの時両親が私に買い与えていたら、私は今のような「きもの」好きにはなっていなかったかもしれません。母は、私を通して自分自身も振袖を着た気になっていたのでしょうか。母の「きもの」に対する気持ちが、その後の私の生活を変えたと言っても過言ではありません。
 私は、結婚し、仕事もしながら何年もかけて着付けを習いました。「きもの」は、私にとってかけがえのないものになっています。私に「きもの」の素晴しさを教えてくれた母に感謝しています。

 
 
ものをめぐるものがたり その17                         2002年9月21日 UP
桜の花は着物色 
                                長野県南佐久郡 N.Y.さん 53歳


 心の内から、萌え出るような感動が押し寄せてきたのは、三十年ぶりに着た着物への思いが余りにも強烈だったからかもしれない。それは、私の結婚祝いとして、父と母が貧しいながらも贈ってくれた小紋の着物だ。その父も母も、もういない。
 故郷を後にして、東京でがむしゃらに働いていて、いよいよ結婚することになった。親からの支度は何もなく、どうせ小さなアパート暮らしに荷物を置くところも無しでちょっと寂しいが・・そんな新しい人生のスタートを覚悟していた。
 ある日、久しぶりに故郷へ帰ったら、目も鮮やかに着物が掛けてあった。母が一生懸命に縫い上げたという。着物のそばに、綺麗な帯も置いてあった。その着物の美しさ。優しい桜の花の色の着物に、桜がいっぱい咲いていて、それは白い色で染められていた。ああなんという美しい着物だろう。父と母が二人で捜してくれた着物、それも無理をして。私はいたたまれなくなって窓を開け、遠くに見える船を追っていた。涙に霞んで、船が段々に見えなくなった。
 その年の春、私と父と母は大阪にいる彼の両親に招待されて出掛けることになった。私はさっそく桜の花の小紋を母に着せてもらった。沿線はどこも桜が満開で、春の陽を浴びて美しく、父も母も大喜びだった。彼の両親も暖かく迎えてくれて、京都のお寺をあちこちと案内してくれた。そして、忘れもしない一枚の写真。それは、醍醐寺の満開の枝垂桜の前で、亡き父と母と桜の花の小紋の着物を着た私と三人が、神妙に立っている写真だ。着物の桜色が本物の桜に溶けこんで、なんとも忘れられない思いとして残った。
 三十年ぶりにお茶会の時に着てみて、この着物の色も思いも何も変わっていないのに、尊びを感じた。父と母への思いがいっそう濃くなる着物だ。
 
 
ものをめぐるものがたり その16                         2002年8月23日 UP
加賀友禅に魅せられて                                                         
                                     岡山市 O.S.さん 62歳

 五十代に入ったころ、息子の結婚やあれこれで新しいきものを何点か買った。その度に夫から言われた。
 「少々高価でもいいから、一生着れるような地味なのを選べ」
 淋しい気もしたが、そういう考えも一理あると思い、私は夫に従った。
 ある日、親しくしている奥さんに誘われて、後楽園の鶴鳴舘で行われたきものの展示会に行った。色留袖の中に加賀友禅のすばらしいのがあった。目の正月のつもりだったのに秋晴れの後楽園の景色を背景にそのきものを肩に掛け、鏡に向かった。うっとりとした。加賀友禅のなんという艶やかな美しさ。地色ははんなりとしたピンクがかったベージュで、柄は手描きで色さまざまな花の間に、曲水と点在する茶屋辻が見えつ隠れつして、美しさがにおいたつ。全体に少し派手で一生は着られない。価格も私のへそくりではとても手が届かない。が、諦め難い。
 「色留袖は華やかなお席でも着るものだから、少々派手でもいいし、お安くしてもらうから思い切りなさいよ」同行の奥さんの言葉につられて、つい買い求めた。
 長男の慰斗入れの時、媒酌人から連絡があり、「先方のお母様がこんな折でないと着る時が無いので、色留袖を着るとおっしゃいますが、お持ちですよね」と伺うような感じだった。
 「ええ、ええ持っております。着て参ります」
ほっとした。思い切ってあの時、加賀友禅を求めておいてよかった。やっぱり一目惚れしただけのことはあった。きものと人との間にも「縁」というものがあるのだと、長男の婚約がととのったことに思いを重ね、幸せな気持ちになったのだった。
 
 
ものをめぐるものがたり その15                         2002年7月7日 UP
きものは鏡
                東京都狛江市 O.M.さん 30歳

 きものは子供の頃から大好きで、大人になったらきものの似合う女性になりたいと思っていました。
 子供の頃はおかっぱ頭だったためか、よく「日本人形みたいだね」と言われたのがとても嬉しく、日本人形のようにきものが着たいと思っていました。母がきものを持っていたので、着たいと言うと答えはいつも「大人になったらね」でした。
 ところが、大人になる前に大変な事に気付いたのです。153センチの母のきものは、その時既に165センチもあった大きな私は着られなくなっていたという事でした。
 母のきものが着られなくなった事で、きものへの憧れがより強くなったのです。
 就職をして、自分でお金を稼ぐようになってやっときものを買いに行きました。それもまるで洋服を買うつもりで行ってしまったので、色々な小物がたくさん必要で驚きましたが、気に入ったきものを買うことが出来ました。
 やっと大好きなきものを手にして気付いた事がありました。自分一人できものを着ることが出来ないのはもちろん、私自身がきものが似合う女性ではなかったという事でした。着て初めて気付いた事だったのですが、きものが似合うというのは外見的なものだけではなく、内面的なものが大切だという事でした。立ち居振る舞いから言葉遣いまで、きものとは不釣り合いでした。それに気付いた時、亡くなった祖母の事を思い出しました。明治生まれの祖母は、いつもきちんときものを着ていました。年をとっていてもとても女性らしく可愛い人でした。
 男女平等といわれる最近ですが、女性らしさを大切に、内面的にもきものの似合う女性になりたいです。祖母と良く似た母をお手本にして・・・。
 
 
きものをめぐるものがたり その14                           2002年5月11日 UP
きものの思い出
                                 茨城県猿島郡 Y.N.さん 17歳

 生まれたときから今までずっと、きものが身近にあった。
母がいつも仕事で、きものを仕立てていたからだ。
 「お母さんの仕事場に入っちゃだめよ」
 私はいつも母からその言葉を聞かされていた。幼い頃から、ずっと。
 三歳くらいのとき、そっと母の部屋に入ってみたことがあった。仕立て台の上には真っ黒なきものが置いてあって、私はそのきものの美しさに見とれていた。その美しさはまさに口を閉じるのも忘れるほどだった。そして本当にロを閉じるのを忘れていた私は、よだれと共にガムを、いったい何の因果か、きものの上に落としてしまった。
 そのとき母は隣の部屋で電話をしていた。私はすばやくガムを指で掴み、よだれを洋服の袖で拭いた。思えばその頃から機敏で判断力のある子供だった、ということはまるでなく、私はきものの上に落ちた、マシュマロのようなガムをただ茫然と眺めていた。思えば、その頃から純臭い子供だった。
 カチャンと電話を切る音が聞こえ、続いて足音が聞こえた。母だ。
 「こらっ!お母さんの部屋に入って・・・」
 静止。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒経過。六秒、七秒、八秒、あ、動いた。
 母は私の前を通り過ぎ、慌ただしく氷水とふきんでガムとよだれを拭き取った。その間わずか五分。実に美しい戦いだった。その後私は母に尻叩きの刑を言い渡され、即実行された。
 最近この話を母にしたところ、あのときのきものは、母が初めて手にするような高価な代物だったらしい。それを聞いて本当によかった。いままでずっと私のきものの思い出は、少しだけ、痛い、思い出だったのだ。

 
 
きものをめぐるものがたり その13                          2002年3月22日 UP
母のきもの姿の思い出
                                                       北海道広尾郡 K.さん 33歳

 幼い頃、正月元旦の一日は母のきもの姿ではじまった。それは朱色のウールであったり、つむぎであったりで、普段、おしゃれに無頓着な母を不思議に思い、なぜきものを着るのか尋ねてみたことがあった。
 「お父さんがきもの好きなのよ」それが母の答えだった。
 その頃の我が家は決して裕福ではなく、父も母も、小さな食堂を切り盛りするのに休みもなく毎日あくせく働いていた。
 湯気と油にまみれて一日一日を終えている両親が、大晦日だけはやっと店を休みにし、また、私たち三姉妹は年越し用の真新しい下着を手渡され、昼間から家族で銭湯へと向かったものだった。
 そして元旦の朝、父はきものを着て新聞を開き、母はきものに真っ白のかっぼう着姿で雑煮を並べている。昨日までとは別人の母がそこにいて、少しまぶしく感じたのを覚えている。
 私たちが結婚した時も、母は娘たちに数枚のきものを持たせてくれた。
 「今どき、きものなんてどうするの?」と尋ねる私たちに、「いいから持っていなさい。必ず着たくなる日が来るから」そう言われながら、しぶしぶお嫁入り道具の一つとなった。
 しかし、母が言うのは本当だった。
 三十代に入った今、私たち三姉妹は、他人のたんすの中味まで思いをめぐらし、取っかえひつかえ、きものを楽しんでいる。
 そうだったのだ。若かりし日の母もきものを楽しみたかったのだ。年に一度〈らい、ゆっくりと凛とした気分を味わいたかったのかもしれない。そう思うと、あの頃の美しかった母の姿がもう一度、頭の中によみがえる。
 
 
きものをめぐるものがたり その12                           2002年2月27日 UP
着物は「思い」を着るもの 
                              大阪市 K.Yさん 46歳

 今から二十八年前、高校を卒業して地元の会社へ就職した私は、翌年のお年賀に女子社員全員が振袖を着て参加することを知らされました。以来、私の頭を、着物、高い、お金の三つが占領しました。とりあえず一年間は、恋も遊びもお預けとなりました。
 親にナントカしてもらおうか…。そんな気持ちはサラサラなかったのですから、良くできた子(?)だったんですね。
 さて、秋も深まったある日、大金を手におそるおそる呉服屋ののれんをくぐりました。初めて自分のお金で買う着物。その思いで、腰ヒモ一本にいたるまで丹念に選びました。年間の給料に相当する着物は、金刺繍の花模様をほどこした、私なりに満足のいくものでした。寸法を測ってもらう時の嬉しさ、日に日に出来上がっていく楽しさ、口では言い表せません。そして、ついに出来上がった着物を持参していただいた時の喜びは、まるでお姫様にでもなった気分でした。
 そんな思いをして買った着物を、私は成人式に特別な思いで着ました。そして人生最大のイベント、結婚式のお色直しにも着ました。周囲が何と言おうと、そこには貸衣裳では味わえない満足のいく喜びがありました。
 私にとって着物とは、一つ一つの思いを着るもの、そんな気がします。どんな着物でも、着る人を優雅でしなやかに見せるのは、実のところたくさんの人の思いを着ているからではないでしょうか。
 時間をかけ、丹精こめて出来上がる一枚の着物。それは日本古来の伝統文化があってこそです。そういう着物をこれからも私達は、大切に守っていきたいですね。
 
 
きものをめぐるものがたり その11                                                             2002年1月11日 UP
着物と私 
                           青森県青森市 K.Iさん 54歳


「お母さん、着物きていくの」
息子は、いつもズボン姿の私にびっくりしていた。最初に着物をきたのは、子供達が保育園に入る時でした。
 「お母さん、一番小さかったよ。でも、着物はよかったよ」
 私が娘を見にいったのに、娘が私を見ていたのです。
 「お母さん、着物をきていくんだよね」三人目になると、当然のようにいいました。
 それからは、子供達の入学式、卒業式は着物にしました。子供達は年子で、柿、弟、妹の三人だったので、毎年のように入学式、卒業式が続き、三人が学校を卒業するまでに、二十四回も着物をきることになりました。
 「着物は、いらないよ」とことわったのですが、母は結婚する時、「着物は人をつくるよ、着物が着れるようになったら一人前だ」といいながら、訪問着、喪服、留袖、単衣物、浴衣等を用意してくれました。今は、亡き母に感謝をしています。
 昭和五十五年頃の青森は、黒の羽織をきていたので、帯はあまり気にしませんでした。でも、図書館で着付けの本を借りたり、着付けのできる人に聞き覚え、式の一週間前から練習をしました。その後、累の羽識をきる人がいなくなり、着物の色もカラフルになり、帯も結ばないでするようになり、むずかしくなりました。でも、毎年着付けをし、忘れないうちにきるので、当日は髪のセットもして、一時間もすればでき上がりました。
 祖母は、明治三十二年生まれの九十八歳ですが、着物で通しました。腰が曲がってくると着丈を直してきていました。紐で結ぶとさっぱりするそうです。私もしゃきっとして、違う人になったような気持ちになります。老後は、着物をきてやれる趣味を持ちたいと思っています。
 
 
きものをめぐるものがたり その10                                                            2001年11月25日 UP
心はきもの日和 
                           愛知県安城市 M.Mさん 62歳


 大学生の時にきものを持っていた。私が上京する際に母が渡してくれた亡父愛用の品であった。私は父の匂いのしみついたきものが愛しくてよく愛用していたが四年生の時に仲間と計画した卒業旅行の費用が捻出できなかったため止むを得ずそのきものを入質した。 
 だが、質から出すことが出来ないまま卒業して故郷に帰ったら、母が亡父の形見の品であるきものをどうしたのかと私に開いた。訳を話した途端、母は私を打った。そして数日私とロをきかなかった。私には母の無念やる方ない気持ちが痛いほどわかったので慙愧の念にかられ、母に平謝りに謝ったらようやくのことで母は許してくれた。
 故郷で就職し数年経ったある日、母が一枚の写真を見せ、「この人と結婚したらどうか」と薦めた。写真には気立ての良さそうな娘が写っていたので、見合いの後、所帯を持った。今の私の家内であるが、母は彼女が和裁をやる点に重きをおいたのである。結果として家内は和裁の内職で貧乏所帯を切り盛りすることになるのであったから、母に先見の明あり、ということであろう。
 結婚をした翌年、私の誕生日に家内はきものをプレゼントしてくれた。私はそれまで誕生日にプレゼントなど貰ったことがなかったので、家内の心遣いが殊の外嬉しかった。
 私は職場から帰るとまず入浴をし仕事の垢を落とす習慣だったが、きものを持つようになったら家内が風呂からあがった私にきものを着せかけてくれるようになったので、やっと一家の主になった気分がした。
 以来、外出をしない時はきもので通してきたが、定年後の現在は今まで以上にきものを愛用している。そんな私に家内は、「あなたもようやく着こなしが上手になったわね」と言ってからかうので、私は「どうだ、惚れ直したか」と逆に威張ってやるが、家内の縫ったきものを着ているせいか心はいつでも温かい。

 
 
きものをめぐるものがたり その9                            2001年10月9日 UP
結城紬 
                           奈良県香芝市 S.Sさん 65歳

 「これは、おばあちゃんの形見の結城や。あんたがお嫁に行く時、仕立て直して持たせてあげるわね」母はその手ざわりをいとおしむようになでながら、よくそう言った。
 「こんなおじいさんの着物みたいのどこがいいの」と、私はそう思ったり、つぶやいたりしていた。
 戦争がはげしくなったある日、母は、あれほど大切にしていた結城の着物を解き、私のモンペの上下に仕立て替えてくれた。
 「結城やで、結城のモンペやで、大事に着るんやで」母はくり返しくり返しそう言った。
 数日後、勤労奉仕中に機銃操射に見舞われた私は、背中一面に大けがを受けた。血まみれになったあの結城のモンペの運命については、記憶の端にも残らなかった。
 私が嫁ぐ日、母は「持たせてやる着物は一枚もないわ。全部おなかに入ってしもうたもんね」と、淋しそうに笑って言った。
 五十路に入った頃から、私は無性に結城紬が欲しくなった。無理をして、やっと念願の一枚を手にした時、「結城々々」と言った母の執着が理解できた。そして、その執着にぶつぶつ鋏を入れて、モンペを縫った母の想いが偲ばれて、感傷のこみ上げたのが思い出される。
 着物が好きで、よく和装で出かける私にも、結城紬を着る機会は余りない。時々たとう紙から出して衣桁に掛け、眺めていたりしては家族に笑われている。
 結城紬の着物に、無造作に貝の口に結んだ本筑の半巾帯、のりのよく効いた、少し長めの真っ白の割烹着、下駄ばきで買い物篭を提げて市場へ行く。そんなぜいたくをしてみたいと思うことが、近頃よくある。
 昔、美しかった母がそうしていたように。
 
 
きものをめぐるものがたり その8                         2001年8月12日 UP
娘への贈り物 
                           大阪府大阪市 M.Mさん 28歳


 私が結婚する時、母は嫁入り道具の和ダンスに私の七歳の時の着物を入れていた。確かにいいものだけど、嫁入りに持っていくのはおかしいと思って、母に言うと、
 「今度は娘に着せられるでしょ」
と、真顔で答え、私はちょっとびっくりした。その時、私のお腹の中には赤ちゃんの影も形もなかったし、子供がほしいという強い希望も別に持っていなかったからだ。
 しかし、少しも古さを感じさせない着物は、私の七五三がまるで昨日のことだったように美しかった。
 「もし子供が生まれても男の子かもしれないよ」
 「じゃあ、孫に着せればいいでしょ」
 すっかり母に負けてしまった私は、結局和ダンスの底に小さな着物を忍ばせて結婚した。
ところが、母の予言どおり、一年後には元気な女の子が授かったのだ。母の思惑どおりのような気がして、少し悔しかったけれど、二十年以上も一枚の着物を大事にしてきた母の気持ちを思うと、やはり嬉しかった。私は、そんな母をよくばかにして笑っていたのだが、娘が大きくなるにつれて、母の夢は私の夢にもなってきたようである。まだまだ幼くて、着物なんて着せられやしない娘が、いつの日か私の着物を着て七五三に行くなんて本当に夢物語のようだ。
 早くそんな日が来てほしいような、いつまでも私のかわいい赤ちゃんのままでいて欲しいような、母親の想いは複雑だ。夢が現実になる日、私は娘の成長を喜びながらも、とても寂しいのではないだろうか。母も、複雑な想いを抱きながら、私の嫁入り支度をしていたのだろう。たった一枚の小さな着物が、大きなことを教えてくれたようである。
 
 
きものをめぐるものがたり その7                         2001年7月22日 UP
母のきもの 
                           岡山県赤盤郡 Y.Tさん 50歳

 犬山城の近くに住む八十歳の父から、この冬、小包みが届きまLた。古いものを整理していて出てきたという亡き母の着物や帯・・。母は二十八歳の若さで逝き、私とはたった七年余りの思い出しかありません。声すら覚えていないし、古い写真で辿るしかない、遠い人・・。私の方が倍近く生き五十歳になってしまいました。母がどんな着物を着ていたかなんて、なおのこと記憶にありません。終戦後の何もない時に、大阪の高槻市から嫁いできたかわいい嫁のために、祖母がやっと手に入れた反物もあったとか…。そう言えば、小学生の頃でしょうか。呉服屋さんが時々、何本もの反物を持って家に来ていたことを覚えています。かわいがってくれた祖母の横で、ただただ私は、呉服屋さんが反物をクルクルと巻くそのリズミカルな手さばきを興味深く見ていたものです。
 小包みから出てきたのは、藍色の大島。裏地が落ち着いた赤・・。「紗」というのでしょうか、夏の帯などはいかにも二十代の若い母らしく、明るいクリーム色に赤や緑の柄・・。それから漆で描かれたという丈の長めの羽織も、今では珍しいのでしょうか。そして私が幼堆園のひなまつりに「三人官女」の役をするために着せてもらった黒地にピンクやオレンジの大きな花柄の着物。これはアルバムの中で顔をすました幼い私が着ています。「あ−あ、もっと早く送ってもらえば、娘に着せたのに・・」と残念な着物です。
 娘は今年、はたち。今どきの女の子で、これらの着物の「レトロ感」が「カツコイイ」と言います。早速、大島を羽織って鏡の前に立ちはしゃいでいましたが、不思議なものです。古い古い着物がとても新鮮に見えたのです。若さってこういうものでしょうね。私が羽織ると、それなりになってしまいますから・・。何十年ぶりにこの着物たちは人に見つめられたのでしょうか。しまってしまうのがかわいそうで、今しばらく掛けてながめていようと思います。「おかあちゃん!」母に逢えたようで、古い着物に語りかけてみる私です。
 
 
きものをめぐるものがたり その6                            2001年5月15日 UP
きものと宝物 
                           宮城県仙台市 K.Eさん 11歳
 
 今から八十年以上も前に私のひいおじいちゃんに十七歳のお嫁さんがきました。
 それが、私のひいおばあちゃんです。
 そのひいおばあちゃんは、三年前に九十八歳で天国に行きましたが、ひいおばあちゃんがお嫁入りの時に着たきものは、形を変えて今はおばあちゃんが着ています。
 そのひいおばあちゃんが、私のお父さんに教えてくれた歌があります。それは、きものの歌でひいおばあちゃんが自分で作って小さいころのお父さんに教えてくれたそうです。
 「六月はじめの衣(ころも)がえ/単衣(ひとえ)の物着てお茶を飲み/
 七月八月暑い早は、絽(ろ)か紗(しゃ) の薄地で涼(すず)みます/
 九月の秋風吹くころは、/単衣 (ひとえ) でご近所歩きます/
 十月はじめの衣(ころも)がえ/袷(あわせ) で、ひと冬をこえ/
 皐月(さつき)まで過ごします/袷(あわせ)もいろいろありまして/
 春は藍(あい)色、秋は茶で/冬は黒い物を着て/秋・冬・春と過ごします」
 ひいおばあちゃんは、十七歳でお嫁さんに来たとさ以来、季節ごとにきものをきちんと使いわけて着ていたそうです。
 私のお父さんは、小さいころからずうっとひいおばあちゃんが作った歌を聴かされ続けていたので今でもこの歌を覚えています。
 きものはひいおばあちゃんにとっては、人生そのものであり大きな宝物であったように思います。そして、私はひいおばあちゃんが残してくれたこの歌が大好きです。
 私もいつの日か、ひいおばあちゃんが作った歌の通りに季節ごとのきものを着ることができるようになりたいと思います。

 
 
きものをめぐるものがたり その5                            2001年4月12日 UP
紫の衣 
                           香川県高松市 T.Yさん 49歳

 「紫の上」源氏物語の姫君とその物語に漂う紫色が心をときめかせたものである。物のない時代に生まれ育ち自分の着物はとても手が出ない、そんな私の青春時代、いつも、娘が生まれたら「紫の上」のような美しい衣を着せてやりたいと思い続けてきた。
 ところが、娘が大学を卒業してこれからが青春だと思った矢先、「好きな人と結婚したい。お金もないから式はいい」とのこと。とっさに思ったことは「紫の訪問着を持たせたい!」。娘は私には似ず背も高く、日本美人(親バカ)で、友人からも「あなたの娘さん、あの女優さんに似てるわよ」と言われ、すっかり嬉しくなっていたのである。
 そこで、せめて娘に着物を作ってやりたいと、生まれて初めて「展示会」なる所に出掛けたのである。覚悟はしていたものの、その高額なこと。娘と私は目を白黒しながら係の方の言葉をうわの空で聞いていたが、なんともいわれぬ美しい「紫の衣」がかけられていたのである。薄紫のその着物は小花が肩からこぼれるように散らされて、据まわりへと流れ、小鳥も描かれみごとなものであった。娘は「とてもすてきな色と柄、ずっと着られるのがいいし」と、私と同じ思いのようで、その場で着付けていただいて鏡にうつる姿に親子でため息をついたのである。初めて娘に買う着物、私の思いのつまった着物。その年の友人の結婚式、次の年はお正月と、嬉しそうに着物を身につけ輝く娘の姿に、私はうれしさがこみあげるのであった。
 娘が嫁いで二年目、先日友人の息子さんの結婚式があり、私はその「紫の衣」を照れながら「娘に借りたのよ。少し私には派手だけど」と言いながら、内心一度は着てみたかったんだからとまんざらでもなかったのである。そんな私に「良かったネ、おかあさん。まだ着ても大丈夫だって、みんな!」と娘は笑っている。今度は私の「紫の衣」を絶対手に入れるのだと心に決めている。

 
 
きものをめぐるものがたり その4                            2001年3月2日 UP
さくらいろのリボン 
                          東京都品川区 O.Jさん 23歳

 「楚々として、なんて素敵な人なんだろう」
 これは、彼女に初めて会ったときの心境です。
彼女は、髪を結い、頭の後ろには、さくらいろの大きなリボンをつけていました。まるで、さくらいろの蝶が羽を休めているかのようです。私が後ろで見ているのにも気が付かないふうで、右手をリボンに持っていくしぐさの何と、清楚なこと。
 春四月、校庭の桜の花も八分咲の、長女の入学式でのことでした。
 まだ開式には間があり、小柄な娘は一番前の席に座っていましたが、時々振り向いては少し緊張した面持ちで、夫や私に手を振っておりました。そんな娘の様子がほほえましくて、カメラを向けていましたが、私の席の斜め前にさくらいろのリボンを見つけたのです。
 「あなた…私の好きな色よ」と、夫に話しかけると、
 「ああ、春の色だな。今日の日にふさわしい色だ」と、夫が言いました。
 入学式も終了し、校庭にたたずむ彼女は、背が高く面長の美人。桜の花をあしらったピンクの着物の映えること、映えること。着物とリボンのセンスの良さに、彼女の人柄を見るような気がしたのです。
 入学式から六年が経ち、娘も彼女のご子息も、中学受験を終え、卒業式を待つばかりとなりました。希望に胸膨らませ、それぞれの人生を歩んで行くことでしょう。 思えば、彼女の家との家族ぐるみのおつきあいも、もう六年になります。この先もずっと、いいおつきあいができたらと私は思っています。
 「春のお祝い事には、桜の着物を着るのよ」
と、言う彼女。どうか、どうか、お天気になりますように。
 
 
きものをめぐるものがたり その3                            2001年2月1日 UP
ゆかたの恋
                         兵庫県姫路市 H.Mさん 23歳


 私の住む街では毎年六月「ゆかた祭」がある。たくさんの出店が駅前に並ぶだけの祭だったが、あでやかな姿を披露する機会と女性達はゆかたを着、駅前は人であふれる。私達の街で一番大きな祭だが、私といえば学生の頃に親に買って貰ったゆかたもタンスの肥やしになりつつあった。
 二十二歳になる年、私は初めて本物の恋をした。きものに対する特別な想い入れができたのも彼の影響だ。彼との交際が始まり半年ほどたった六月。一緒に「ゆかた祭」へ行く約束をした。ゆかたを着ようか迷っていたが、彼の希望で私の初めての挑戦は決定した。
 私が選んでいたのは深い青の地に桃と薄紫のあじさいが美しいシンプルなものだった。
 当日、母にゆかたを着せてもらい、何度も鏡の前に立つが、見れば見るほど似合わない気がしてくる。彼は嘘のヘタな人だったので、反応を思うと不安でしかたがなかった。待ち合わせの駅に着くと、彼は先に待っていた。手を振る私に照れたようにうつむいて、なんだか彼の方がはずかしそうだった。その後もデートの間中、私を直視しようとしない。夜も遅くなり、そろそろ帰ろうと駅に向かう途中、彼が荷物を預けていたコインロッカーに寄り、私は先に改札へ行き待っていた。人込みに少し疲れて放心していたのだが、あまりに遅いので辺りを見廻すと、彼が立ち止まりこっちを見ている。何事かと思い手を振ると、はにかんだ笑顔で走って来た。彼のそんな表情を見るのは初めての事だった。
改札を抜け、電車に向かう途中、
 「お前、毎日和服でおれ」
とポツリと言った。最高の褒め言葉に私は笑顔で答えた。
 あの日以来きものが大好きになり、私にとって特別な正装となった。
これから幾度となく迎えるであろう大切な日は、和服を用意したいと思う。
 
 
きものをめぐるものがたり その2                            2001年1月10日 UP
いつものきもの

                           東京都目黒区 I.N さん 39歳

 四十過ぎたら日常にきものを着ているような人になりたい、と小さい時から思っていた。面長の顔とズドンとした体型のせいか、自分にはきものが似合うと信じている。嫁入り仕度にと母がそろえてくれたきもの一式。それらは私の宝物だ。
 私は二十五になった頃、着付けを習い始めた。あまり器用でない私は悪戦苦闘。帯を締めるのにもなかなか体力がいることを知る。早く着付けを覚えたくて家でも毎日練習した。大好きなきものを身にまとっての練習は、きついけど何かうきうきするものだった。きものも段々自分になじんできてくれる気がした。
 そんなある日。その日も私は着付けの練習をしていた。相変わらず悪戦苦闘だ。帯がなかなかうまく結べない。「う〜ん」とうなっていると、「ピンポン」、宅配便が来た。だいたい着付けが終わっていた私は、そのままドアを開けた。すると、「あっ」。宅配便の人が驚きの声をあげた。「あれ、どこか変だったかな」、私は心配になりきものを見回している。その時彼はにっこりとしてこう言った。
 「すてきですね・・」
 何のてらいもなく心から言ってくれた言葉。私はちょっとポカンとしてしまったけど、すぐにとびきりの笑顔になっていた。
 「ありがとう」
 あの時私が着ていたのは、母からもらったごく普通のウールのきもの。黒地に紫の丸模様が二つ、三つだけのとても地味なものだった。そう、それこそ普段着のきものだった。そのことがいっそう私を嬉しくさせた。特別におめかししたのではなく、ごく日常に着ているきもの。これこそ私が思い続けていたことではないか。
 私も今年四十歳になる。いよいよ夢の実現の時が来た。

 
 
きものをめぐるものがたり その1                            2000年12月1日 UP
 
心の勲章

                            滋賀県 K.E さん 38歳

 「なんでまた、こんなしみつけたん」着物を手にして、母の小言が始まる。薄いピンク地に、白い粉雪のような鼓の模様。まるで桜ふぶきのような、小紋の着物。これは私の結婚が決まった時、初めて母と行った着物の展示会で、二人同時に気に入った着物だ。短大を出て、他県で保母になり離れて暮らしていたため、母娘で一緒に出かけて買い物をするのも初めての体験だった。
 その着物も、保母という職業柄か嫁いでからも一度も袖を通すことなく年数だけが過ぎていった。それが去年、保育園で子ども達とお茶会をする事になり、初めて陽の目を見る事になったのだ。お義母さんに帯を見立ててもらい当日を迎えた。この日は、一日中保母は着物姿で過ごす。いつもは、ジャージにトレーナーで走り回っている私の変身ぶりにとまどいながらも、子ども達はあこがれのまなざしで見つめている。一日中私は、お姫様気分で過ごしていた。給食の時間になった。いつもはわんばくで保母泣かせのK君が、めずらしく私の隣に席をとり小声で「せんせ、これあげる」と、K君の大好物のサンマを半分、箸で私の皿に入れようとした時だ。箸からサンマがすべり落ち、私の着物のひざの上にポトリとのっかった。
 「あっ!」叫んだのはK君だった。真っ赤になって、「ごめん、ごめんな」と言って涙ぐんでいる。私はそのやさしさがいとおしくて、K君を抱きしめていた。
 「K君、ありがとう。先生、いただくよ」
K君に笑顔が戻った。着物を通してK君の心の中にいっぱい詰まっていたやさしさが、溢れ出した一瞬だった。母の小言を聞きながら私は思った。着物は人の心を引き出して、思いを刻んでいくものだと。
 今年もまた別の着物にも袖をとおそう。
 たくさんの勲章を心に刻み込むために。

 

 
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